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ダーツの歴史と発展

1.ダーツの語源

 

DART(名詞から動詞としても用いられるようになった):古フランス語から中世フランス語のdart(中世フランス語から現代フランス語のdart):古プラバンス語のdartや古高地ドイツ語のtart(投げ槍、投げ矢)と、同様にdartは、フランク語(古代フランク族の言語)のdarothに起源を求めることができる。(エリック・パートリッジの語源学による)

 参照:古英語のdaroth、darath(dagger‐短)

    古スカンジナビア語のdarrather(dart‐軽く短い投げ槍、投げ矢)。

 

2.ダーツの歴史と発展

 

ダーツはいまやイギリスでもっとも人気のあるスポーツではないだろうか。その歴史をたどるとき、驚く程わからないことが多い。

現代のダーツは、19世紀の終わりから20世紀初めに確立されたものである。

どうしてこのように英国で短期間に発展したのか、それはテレビにとり上げられ放映され、多くの視聴者と素質のある参加者が得られたことによると思われる。他の理由もいろいろと考えられるが・・・。

かつてダーツはパブやクラブで行われ、プレイヤーは、ダーツの世界以外ではあまり知られなかった。テレビはすべてを変え興味のベースを作り、スポンサーを引きつけた。レジャーとみられていた娯楽からプロ選手が生まれ、一流選手は、その大きな金銭的報酬を得られることになった。

 

以下年代別に現代のダーツへの歴史を簡単にたどってみよう。

 

 何10万年もの昔から人は、狩猟や戦いのためのstick(棒切れ)やstone(石)用い、有効な武器としてmace(かぎくぎのついたほこのある混棒)、pilum(古代ローマ兵の投げ槍)やspear(するどい穂先のある投げ槍)を作り出した。

ここに槍や円盤を投げるオリンピック競技から、バットとボールのゲームに至るファミリーなものまで近代スポーツの原型をみることができる。

初期の武器につづいて弓や矢が考案され、武器は進歩を遂げた。

Spearの飛行中の安定性はその長さにあったが、矢は遠くにあるターゲットまで飛行を続けるためには、フライトを用い弓の力を利用した。石、青銅や鉄は古くからいろいろな人々によって、様々な弓から放つ矢の先にとりつけるために使用された。

 東ヨーロッパやアジアでは弓は騎馬隊の武器であったが、6世紀にビザンティン帝国(395-1453)の将軍の将軍ベリサリアスがfighting dart (下図)を考察した。このダートは、18インチ(46cm)の長さで矢に似ているがヘッドのやや後ろを重くしてあり、突きささりやすくしてある。これを各弓手は、たての内側に3本とりつけ接近戦にそなえていた。

 

中世のイングランドの弓手が最高の枝を持っていたと言われるが、彼らは武器をつくることからレジャー用の小さい槍やファイティングダートのようなものまで作っていたかも知れない。これらを彼らは戦いの合間にターゲットに正確に射たり、投げたりするためにトレーニングに励んだり、レクリエーションとして楽しんだことだろう。13世紀までには longbow (長弓)が英国の武器として定着した。有名なヘイスティングの戦い(1066)やアジンコートの戦い(1415)で長弓隊が活躍した。(百年戦争1337~1453)

 

オックスフォードの辞典(OED)によれば「darte」という言葉は、1314年に最初の用例として記録がみられるが、ちなみに我々が知っているダーツゲームへの言及が初めてなされたのは、1901年である。14世紀以降ダーツやダーツを投げることがブルーン(1330)、チョーサー(1374)、シェイクスピア(1612)らの文学作品の中に現れるようになった。16世紀には、的はわらをかたく締めた円形のものに大体統一され、その中心にブルがあり直径は18インチ(46cm)位であった。これが現在のダートボードの起源と考えられる。

その後17世紀中頃で、長弓の武器としての役割は終わり、的に矢をあてる弓技(ターゲット・アーチェリー)は、レクリエーションとして残り、18世紀には有閑階級の娯楽として盛んになった。

従って的の標準化が求められ、直径4フィート(122cm)の円形に4種のリング、即ち白(1点)、黒(3点)、青もしくは内側の白(5点)そして赤(7点)、真ん中は金色(9点)でブルズアイと名付けられ、この得点方式がダートボードの基礎となった。

 1532年、新年恒例のプレゼント交換会でアン・ブレィン(英国史における悲運な王妃)は、ヘンリー8世にビスケイヤン風の豪華な装飾のあるダーツを送ったと記録があるが、それは多分バスク地方で使われた狩猟用の武器(ハンドーダーツ)である。

 1620年、英国のビスグリム・ファザー(清教徒団)たちが、新世界を目指すメイ・フラワー号の船室でダーツを投げたということがよく話題になっているが正式な記録がないから何とも言えない。

彼らの生き方、考え方からは疑問が残るし、すごく揺れる小さな船の中で投げられただろうか。ただアメリカのダーツの専門家のE・Hadyは、ワインの樽のような標的に短い矢を投げたと言っている。

 その後、19世紀後半に単なる同心円の標的から木の切り株の年輪と亀裂がアイデアとなり、これをデザイン化した同心円と分割線によって組み合わされたボードの面の模様が考察され、色々なタイプのボードが英国各地で、作られた。

 1896年、ランカシャアー集のBuryの大工であった Briangamlin は現在我々が使用しているボードの周りの数の配置を考案した。

 1898年、あるアメリカ人が折りたためるペーパーフライトを考案し、1906年には、ヨークシャー州のある男がダーツのシステムに金属のバレルを作った。

 近代のダーツのルーツは19世紀であり、17世紀・18世紀という時期の歴史は判然とせず、それほど発達しなかったのではないかと思われる。産業革命(1764-70)による工業の発達により、多くのスポーツは19世紀の英国で勢いを得て、公式ルールや役員組織が確立され1800年代の終わりにダーツは進歩を遂げた。

さらに英国的なものとアメリカ的なもの即ち、金属バレルとペーパーフライトこの2つのアイデアを採用することにより、近代ダーツの基礎ができた。

 1908年の歴史的な「フット・アナキンの判決」までは、ダーツゲームの合法性に疑問が持たれていた。当時の法律では運が左右するゲームは、パブでは違法であった。ヨークシャー州のパブのオーナーであるフット・アナキンはこのゲームを行ったかどでリーズの治安判事に出頭を命じられた。

彼はヨークシャーダートボード(トリプルとアウターブルなし)を法廷に持ち込む許可を得、治安判事の見守る中、見事なフォームで3本のダーツをダブルトップに入れた。そしてまたアンコールに答えてそれを繰り返した。このときあ然とした沈黙を破って歴史的な判決が下った。

「これはチャンスに左右されるゲームではない!」とこの場面は今日の多くのダーツプレイヤーが黄金時代とみなす時代への出発点となった。

 英国のビール醸造所のハンドブックにあるE.Norman氏の説明によると、1908年頃、Dorset、Devon、Cornwall、にあるS.Hockey & Sons醸造所では、3フィート(0.91m)長さの木枠でビール配達していた。

ポーツマスではいくつかのパブでスローイングラインを示すのにこの木枠3つの端をつないでおくアイデアを思いついた。(9フィートのスローイングライン)以後、この木枠をHockey(ホッケィ)と呼びこれが‘Toe the hockey’即ちつま先をホッケィにおくという言葉の始まりだということである。その後、1911年にPethe Brewersは木枠の長さ2フィート(0.61m)を紹介し、これの4倍の8フィート(2.44m)のスローイングをつくるためにこの位置にHockeyを置いた。

 現在、スローイングラインにおかれるHockey(またはOcheと呼ばれる)の長さは2フィート(0.61m)である。ダーツワールドの編集長のTony wood氏の説明によれば、‘Oche’という言葉は、アングロ・サクソンの古語からきたもので‘Line on the ground’の意味だということで(地面上のライン)と信じられており、‘Oh-kee’(オーキィ)と発音される。しかし、またダーツ専門家のDerek Brown氏によれば、‘Oche’は‘Okky’(オキ)と発音するとのことである。

 第1次世界大戦後多くのクラブやチームができて、1924年、Licensed Victallers がAssociationがNational Darts Associationを設立した。New of the World(日曜新聞)によるスポンサーでオールロンドントーナメントが行われ、1927 / 28シーズン(ダーツはもともと冬のスポーツであった)1,010人の競技者の中からNew south-west HamのSammy stoneが優勝した。その後、この大会は第2次大戦(1939‐1945)で中断したが1948年以降、現在も世界のビッグトーナメントとして開催されている。

 1936年には、初めてダーツの本が出版された。(ポケットサイズの小さな本で、R.Cort-Cooke、DARTS、1936)。

 1939 News of the worldのファイナルが初めてBBCより放送され、同年アメリカで「フランケンシュタインの息子」という映画の中にダーツのシーンが登場した。

 1953年National Darts Association of Great Britain(NDAGB)がPeople newspaperの後援で設立された。(Old NDAは戦後まで改革されなかったがダーツをスポーツとするために総合的な団体にする必要があった。)NDAGBは9つのナショナルチャンピオンシップを主催している。

 1973年、Olly CroftによってBritish Darts Organisation(B.D.O.)が設立された。彼は他のB.D.O.の助力者とともにダーツのイメージを、パブなどで投げる娯楽からテレビのスクリーンに方向づけ、ダーツブームをおこした。そして、トッププレイヤー達にスポーツマンとしてまたエンターティナーとしての価値を認識させた。

 B.D.O.は、イングランド、ウェールズ、スコットランドのセレクタリーによって組織され、50をこえるNational League やBritish Open、World Masters など大きなトーナメントを運営し、スポンサーやテレビ、新聞などの注目を浴びた。

 そして1970年代後半においてダーツは国際スポーツとなりジョン・ロゥ、エリック・ブリストゥ、ライトン・リースやジャッキー・ウイルソンらのスターを誕生させた。

1974年(S.49)第1回ワールドマスターズが英国ロンドンで開催。

1975年(S.50)日本ダーツ協会Japan Darts Association(J.D.A.)が理事長江崎元子、常任理事B.R.Brick、江崎享億氏らにより設立された。(第1回日本ダーツ選手権大会が開催された。)

 1975年(S.50)英国で初めてのプロのプレイヤーであるアラン・エヴァンス、アラン・グラジェーが誕生し新しい時代が始まった。

1976年(S.51)B.D.O.が中心となり、世界ダーツ連盟World DartsFederation

(W.D.F.)がロンドンで設立された。1977年、日本もW.D.F.に加盟した。同年W.D.F.の会議でダーツの発展のため6インチと8フィートについての折衷案が出され、7フィート9 1/4インチ(2.37m)が決定された。以上が最近までのダーツの発展経過のあらすじである。

 本場英国では平均3週に1回は高い賞金のかかった試合があり、トッププレーヤーたちは互いに腕を磨きあっている。世界最高のタイトルであるワールド・プロフェッショナル選手権は、世界のベストプレイヤー32人が参加して行われ、その8日間の試合は毎日3時間もテレビ中継されている。英国でダーツが見るゲームとしてまたスポンサー

の対象として人気が高いのは、テレビのおかげでありハイテクノロジーによるタングステンアロイのダートが的への命中率をよくし、試合をより面白くみせているからである。「英国のダーツシーズン」は、9月に始まり6月に終わるがこの間多いときには900万人の人々が試合をテレビで観戦している。

                        

 

                                                                                           (1986「darts diary」津田昌信)

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